二極化
最近、色々なものが二極化しているのだけど、「文化的」VS「実際的」の二極化の力が一番大きく、そうして乖離した結果として双方がとても薄っぺらく、容赦なく、救いがたくなっている気がしてきている。
レイヤ・規模をそろえずに適当に並べると、
- 「十分な知見とノウハウが蓄積できたので」doblog終了
- 豚インフル
- TechCrunch的なWeb開発世界
- クールジャパン
- トンチドット
- 日本の政治的なトピックもろもろ
- 雑誌文化の衰退
- 日本車の総カローラ化に対して、超高級スポーツ・ラグジャリーを未だリリースし続ける欧州
- CHANGE
- 婚活
などなど。何だかもう、全て茶番としか思えない。小説や映画をここに入れてもいい。
こういうつまらなさは、やはり情報が行き渡ることによって引き起こされていると思う。情報が行き渡ったことで、実際的な物事をより効率化してしまっただけでなく、「文化的」なるもの、つまり単なる伝統や一時的な揺らぎの是非も、非常に効率的にジャッジされてしまうようになった。結果、「是」とされたものでさえ、あまりに軽薄で、ほとんど数式で表現できそうなぐらいである。
今ほど影の力が失われている時代は恐らく無いだろう。そして、分からない、ということの価値が今ほど潜在的に高い時代は無いだろう。最先端材料や大統一理論や脳科学のように全然分かってない領域というのは、この世界では非常に貴重な、真にエキサイティングでリアルなコンテンツであろうと思う。その良さを享受できる人は限られているけれど。
思えば脳というシステムは、未知の環境でも生き残り、子孫を残すためだけに作られた装置である。だからこそ、自らの適応力を点検するために、常に新規の刺激を求め、頭の中にモデルを構築しようとする。そのためには、刺激は未知でなければならない。
ところが、現代の世の中では、実際的でないものは全て文化的である、という風に峻別できるようになってしまった。実際的なものごとはベストプラクティスか、民主的なシステムで対応できる。文化的なものは全て、既に構築された何らかのシステムのメカニズムの一部である。従って、もう我々の脳をいちいち働かせる必要は無いのである。