ダンス・ダンス・ダンス

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080909/1220932065
http://gijutu.blog.drecom.jp/archive/222

普段は、はてな村の流行の話題なんて追わないのだけど、ダンスを見るのは好きだから、ちょっと読んでみた。ちなみに、Perfumeは、未だに誰が誰なのか認識できないw 見てるのは好きなのだけど、三人一緒にステージの上にいる時以外の彼女らには興味を持てないから、三人で一つの物体と認識してる。


Perfumeのダンスが「わざと」ああしてるのは良く分かる。それなりに訓練して、あの動きをしている(一部は本当に流れてるだけだろうと思うけど。挙げられてる動画はライブだし)のも分かる。そんなのは見れば分かる。問題は、つまらんということだ。先進の「ポップ」が「つまらん」ということは、ある種の哲学的な問題を感じさせる。でもそういうつまらなさは、身近なところでは西尾維新とか以降の小説なんかでも感じるモノであって、やっぱり何らかの最適化の末に産まれてきたのだろう。
女の子らしい柔らかい顔立ちに、マクドナルド的に不気味な演技的笑顔、無機質・無個性を極めた振り付け、さらにそのダンスを踊る肉体の不完全な生々しさ、ボコーダーを通したロボ声と、通しても消しきれない「ん」の発音の幼さ、キャッチーなメロディと、メロディを打ち消す「サウンド」的重低音。ポップとは程遠いそれぞれの素片を、ちぐはぐなまま統合すると、なぜか「ポップ」になる。逆説の固まりのような表現を作り出している。ポップの解体・再構築がPerfumeの神髄なのは素人でも分かる。差分としてのポップ?
すげーと思うんだけど、でもつまんないなー。意図が透けて見えるから。こうやって論争が起きること自体、甘いものと無機質なものをちぐはぐに統合した結果であって、「割と好きなんだけど、この辺が納得いかねー感」を全方向にわざと演出して、そうやって人の神経を逆撫でするように逆撫でするよーに作り上げた結果だろう。そういうチープなアプローチが、若干気にくわない。人の心をハッキングするのが目的であって、人を楽しませることが目的とは、やっぱり感じない。と言うと不正確だな。普通にエンターテイナーなアイドルでもありたい彼女ら自身の気持ちすら、素片の一つとして構成物に組み入れられ、メディアに載せられている感じ。全体を楽しむためには、細部にのめり込むことを許されず、インタラクションの中を回遊するしかない感じ。
簡単に言えば、「安心して見れない感じ」。
その辺が、やっぱりつまらん。と言うか、疲れる。理屈でなく、本能的に「こいつらには油断できねー」感がひしひしと伝わってくる。素直に油断できてる人達が羨ましい。でも今、無闇にPerfume論がはびこってるのは、けっこうな数の人が「油断できねー」って思ってるからでしょ。
私にとっては、Perfumeのダンスは、映像的に何となく見る、以上にのめり込むのは難しい。


逆に、ああいう幾分極端に振ったダンスが許されるのは、他の素片のサポートがあるから、という考え方も可能かとは思う。


http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080416/153213/ みたいな、完成度が高すぎるが故の不自由さは、エンターテインメント業界にあるのかもしれない。(MJ的なダンスが廃れたのは、多分MJに対する嫉妬だろうと思っているけど(言い過ぎかなぁ))。
でも、ジャンルがあるからこそ、競争の果ての頂上が高くなるんであって、自由度を求めてジャンル融合してしまうと最高レベルは一気に下がってしまう。Perfumeは、MCさえ無ければかなりの「神様」感があるけれど、それは誰も太刀打ちできないような技術レベルにあるのではなくて、プロデュースに支えられた、表現のバランスにある。なんかもう、この先こういうのしか無いのかな、何か一つを一生懸命やるって無いのかな、って思うとちょっと悲しい。極論だけど。