希望

「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」 - END_OF_SCAN
確かに,世の中的な問題で希望が持ててない人間に,希望を持て,と切り捨てたところで問題は解決しないですね.
そして,「問題は解決しない」と言ったところでやはり解決しないw
正直,思想的に救うのは無理なんじゃね? と思います.世の中良くしないとどうしようもない.彼女か殺人かの二択しかない時点で間違ってる.

ケータイに着目したのは,PCはもう少し世界が繋がってる気がするからです.
はてな村もVIPも,周りのニュースに対する反応であって,住人の思想は宗教的だけれど,情報はもう少しだけ広いところからやってくる.
でも,少なくとも私にはまだ,上手く「ケータイサーフィン」ができません.次の情報にどうやって移動したらいいのか分からない.ケータイでも相変わらずYahoo!ニュースとか見てたりする.

確かに逃げ場は重要で,死にたいとか俺はダメだとか彼女ができないとか呟いて,他の奴の書き込みにさらに反発して,もうダメだと思う何歩か手前で,全然別のところにEXITできるのがいいと思うのです.どうせまたそこでもグダグダになるんでしょうけど,取りあえず気分は少し変わる.同じところにいるよりは良い.

海外援助

農水系の友人に久し振りに会った。またどこぞに出張だとか。
最近は、海外援助(海外協力? 国際協力?)でお金だけ出してると批判されるので、人を付けて技術指導と監督をするよということになっているのだけど、実際は現地ではお金だけ出してくれればいいと思っている(好きなようにやりたい。自分たちなりに欲しいものは分かってる)ので、適当な研究者を付けてお茶を濁すらしい。


農業コンサルというほどハイレベルな話をする必要はないにせよ、機械とセットで教育は必要なんじゃないのかとは思う。自分で痛い目を見てこそという気もするが、今の世の中、それじゃ間に合わない。ERPパッケージの押し売りのようなこととか、ちゃんとソリューション提案するとか。しかし、そうやって介入しても、何か起きたら責任取れないってのが困りものだな。責任取るところじゃないのだけど、援助の最終目的である、友好と外交カードの獲得に繋がらなくなる。

ネット適応の深化と現実世界マッピングの分散化

オタクと言えば秋葉原、という文化>地域マッピングはいつしか消え去ろうとしている。その代わり、より創造的な活動はSNSCGMサイトに集積されており、そこから現実世界へとサイクルを伸ばしたオフ会や勉強会が、日本各地で自由闊達に行われている。そうした新たなマッピングは、地理的に分散しているのみならず、時系列的にも定常化していない。先端のネット文化は特定の地域と結びついていない。あるのはURLだけだ。
SNSCGMを中核として用いない最後のスピンアウトが東方ライブであり、最初のスピンアウトが「踊ってみた」オフである、とか仮定してみる。「踊ってみた」はSNS/CGMを通じたサイクルを形成しているが、東方ライブはリーダーシップを持った特定団体が行っている。ように見える。ちと微妙か?
ちなみに同人誌即売会は基本的にSNS/CGMを経ないので別の原理だ。


うーん、まだ微妙だな。自分は、文通やメールの先としてのネットと、SNS/CGMとの間に何の違いを感じているのだろう。自発性、自律性、民主性、自己組織化、と言ったところだろうか。

スペクタクル化と(岡田の言う)オタクの弱体化

は、たぶん関連している。そして、オタクの弱体化は今回のような事件を生む。真のオタクは事件など起こさない。そこまで現実や現実の中の自分に興味を持てないからだ。真のオタクにとって、現実とオタク世界は全く別の代物だ。だが、弱体化し、脱オタクなどというEXITさえ意識する現代オタクにとって、両者は常にオーバーラップしている。たとえば20年前の渋谷を思わせる痛々しくファッショナブルな坊やが白ゴスと手を繋いで歩く秋葉原において。現実とオタク世界が融合し始めているからこそ、ダブルスタンダードも起きるし、その狭間で苦しむ人が「反転」した時、どちらの世界も等しく敵となるだろう。

喪うこと

誰かが死ぬこと、あるいは自分が死んだかも知れないということ。それよりも私は、誰か・何かを喪うことを恐れている。普段の態度を貫けるならば、「消えるというなら消えればいい」と言い放てば良いのだろう。でも私は臆病で、喪うことを恐れ続けている。ずっと無くし続けてきたから、効率よく喪うために、どのような思考を積み重ねれば良いか分かっている。そんな適応こそが、臆病の証拠だと思う。

数をこなす

異常者を指さして世間が「訳が分からない」「怖い」と言うからこそ、世間に評価されるには、その訳の分からないことをしなければならないのだろうな。実際的なインパクトで言えば、暗殺対象は他にも幾らでもいる。特に囁かれているようなイデオロギーに基づくならば、T社やC社のトップを狙う方がよっぽど意味がある。でも、彼の知る「恐れられる存在」とは、無差別殺人者でしかない。恐ろしさは数で測るしかない。死傷者を値段のように数える理不尽な存在になりたいと願う、やっぱりそれは、暗殺や反逆ではなく、メディアに強化されたテロリズムなのだろう。